MENU
座間市の個別指導塾 進学個別塾こよみ 塾長 山本直通

座間市栗原中央の個別指導塾

こよみの想いと教育について

進学個別こよみ 塾長 山本

気づくということから、すべては始まる

道端に咲いている花に、気づけるかどうか。

これは優しさの話ではありません。心がきれいかどうかという話でもありません。

ただ、見えているものを、見えていないままにしない力があるかどうかの話です。

学習という視点で捉えてみると次のようなことが言えます。

ノートは書いている。机にも向かっている。それなのに、同じところで何度もつまずく。

多くの場合、自分がどこで分からなくなっているのかに、気づいていない。それだけです。

見えていないのではなく、見えているのに、認識されていない。

認識されていないと、行動を起こしてもなかなか結果に繋がり難くなってしまう。

この状態が続くと、自己肯定感が下げてしまったり、改善するために必要な時間が多くなってしまう可能性が高まります。

「認識の欠如」が引き起こす停滞の正体

私たちは、見ているようで「見ていない」ものが多すぎます。勉強におけるミスも同様です。例えば、計算ミスを「不注意」の一言で片付けてしまうこと。ここには決定的な「気づき」の欠由があります。なぜその数字を書き間違えたのか、なぜその瞬間に集中が途切れたのか。その微細な変化に気づこうとしない限り、どれほど演習を重ねても、同じ場所で足を取られ続けます。

道端に咲いている花に気づく感性とは、決して情緒的な優しさのことではありません。自分の外側にある世界と、自分の内側にある思考の変化を、解像度を高く捉える「知覚の鋭さ」そのものだということです。この知覚が鈍いままでは、どれほど優れた解法を教わっても、自分の思考のズレに気づくことができません。私たちはまず、この「認識の蓋」を外すところから始めます。

指示はあるが、目的がない学習

学習の場面では、「こうやりなさい」という指示が頻繁に出されます。しかし、その目的が何なのかまで共有されることは多くありません。小学校低学年であれば、それでも問題は起きにくいでしょう。けれど、高学年になるにつれて、子どもたちは本来、手段と目的を切り分けて考えられるようになっていきます。

それにもかかわらず、現実には「指示だけ」が当たり前のように続いていきます。好きな科目であれば、知的好奇心が学習を前に進めてくれます。一方で、苦手な科目ではそうはいきません。できるイメージを持てないまま取り組み、テストの点数で現実を突きつけられ、学習そのものから距離を取ってしまう。こうした循環が生まります。

ここで重要なのは、目的を理解しているかどうかです。目的が分かっていれば、手段は固定されません。例えば、単語を10回ずつ書くことも、覚えるという目的が共有されていれば、量を減らすことも、別の方法に変えることも可能になります。目的を持たない学習では、手段を守ること自体がゴールになり、本来の学習の目的を果たせるかどうかは運任せになってしまいます。

手段を目的化させない「対等な共有」

多くの子どもたちにとって、学習が「砂漠で穴を掘り、それを埋める」ような不毛な作業になっているのは、その知識や行動がどこに繋がっているのかという「出口(目的)」が示されていないからです。英語学習において単語を覚えるのは、目の前の英文を読み解くためという明確な目的があります。しかし他の科目になると、途端に「テストに出るから」「指示されたから」という、手段が目的化した状態に陥ります。

目的(出口)のない行動は、脳にとって苦痛でしかありません。私たちが目的を共有する最大の理由は、自分の状態に合わせて「手段の変更」を可能にするためです。100単語を各10回書くという指示があったとき、目的を理解していない子は盲目的に1000回書く作業に没頭しますが、目的が「習得」であれば、既に覚えているものは回数を減らし、苦手なものに時間を割くという合理的な判断ができるようになります。目的を知ることは、自分に最適な学習量を選択する権利を持つということなのです。

嘘と赤字は、悪意ではない

「やったって言ったのに、できていない」「分かったって言ったのに、説明できない」こうした場面は、決して珍しいものではありません。ここで起きていることを、「嘘をついた」と判断するのは簡単です。けれど、その理解では、学習の本質には辿り着けません。

多くの子どもは、考えることよりも、従うことを先に身につけてきました。漢字は10回書く。間違えたところは赤字で直す。そう言われたから、そうする。その手順自体を疑ったり、「なぜ間違えたのか」「どうすれば防げたのか」を立ち止まって考える経験は、意外なほど少ないのです。

赤字で埋め尽くされたノートは、一見すると努力の証拠に見えます。しかし、その赤字が「理解」を深めているとは限りません。間違えた理由に触れず、正解だけを書き足す。そうやって、思考の途中を消してしまう。これはズルでも怠慢でもなく、そうした学び方を続けてきた結果として、自然に身についた振る舞いです。

進学個別こよみでは、答えそのものよりも、解いている最中の背中を見ています。鉛筆が止まる瞬間。書き直すときの速さ。視線が泳ぐ場所。そこには、本人もまだ言葉にできていない迷いが、はっきりと表れます。

分からないことよりも、「分かっていない自分」に向き合うことのほうが、ずっと難しい。だから多くの場合、人は無意識に視線を逸らします。私たちは、その瞬間を見逃さない。責めるためではなく、立ち止まるためです。ここが、学びの本当の始まりになります。

赤字という名の証拠隠滅を、成長の種に変える

お子様のノートを埋め尽くす赤い文字。それは「勉強の成果」ではなく、「自分自身の弱さ」を覆い隠すための化粧かもしれません。間違えた自分を認めることは、大人でも苦しいものです。評価され続けてきた子供たちにとって、バツがついた事実は「否定」に感じられます。だから、無意識のうちに赤字で正解を書き込み、「もう終わったこと」にして、思考を停止させてしまうのです。

私たちは、答えよりも、解いているときの「背中」を見ます。鉛筆が止まる瞬間、書き直すスピード、目線の動き。そこには、本人も言葉にできていない迷いが表れます。「分かっていない自分」を、自分で見ないようにしている。それに、そっと立ち止まらせる。ここが、始まりです。私たちは、彼らが「自分の足で砂利道を歩く痛み」を奪わないように、絶妙な距離で見守ります。その背中から立ち上る迷いや葛藤こそが、知性が産声を上げている瞬間なのです。

便利さと引き換えに、失われるもの

手厚く教える。時間を詰める。答えを先に示す。これらは、確かに親切です。安心感もあります。

しかし同時に、悩む時間や、考え抜く時間を、少しずつ削ってしまうこともあります。勉強は、誰かに運んでもらうものではありません。自分の足で進むための練習です。

最短距離を用意し続けると、一人になったとき、立ち止まってしまう。私たちは、その状態を良しとはしません。だから、あえて距離を取ります。すぐに手を出さず、すぐに答えを渡さず、考え切るところまで, 見守る。迷い、葛藤しながら進む背中こそが、思考が育っている証拠だからです。

「親切」という名の思考停止を避ける

至れり尽くせりの環境は、短期的には効率よく見えるかもしれません。しかし、最短距離で連れて行ってもらうことに慣れた子供は、一人になった瞬間、どこに足を出せばいいのか分からなくなります。私たちが「あえて距離を取る」のは、子供たちが自律する権利を奪わないためです。悩む時間を奪うことは、自ら道を切り拓く喜びを奪うことと同じだと考えています。

点数の先に残るもの

点数を取りに行く過程は、楽ではありません。自分の弱さと、何度も向き合うことになります。思うように進まない日もある。分かったつもりだったことが、通用しないこともある。

それでも、自分で考え、動き、たどり着いて取った点数は、確かな手応えとして残ります。この手応えは、結果そのものよりも、ずっと長く残る。将来、社会に出たとき、立ち止まった場面で、静かに支えになります。

勉強は、受験のためだけのものではありません。自分で立つための訓練です。

自負という、一生消えない財産。私たちが手渡したいのは、合格通知だけではありません。自分をごまかさず、分からなかった理由を探し、一歩ずつ前に進んできたという実感。その積み重ねが、自負になります。この自負を持つ人は、環境が変わっても、簡単には崩れません。答えが用意されていない場面でも、自分で考え、選び、進むことができます。

勉強を通じて、無自覚だったものが自覚に変わり、一日一日が「暦(こよみ)」として積み重なっていく。私たちは、その歩みを信じています。それが、点数の先に残るものだと考えています。

自負という、一生消えない財産

私たちが手渡したいのは合格通知だけではありません。自分を欺かず、一歩ずつ解決策を導き出す「自負」です。座間中学校や栗原中学校、西中学校など近隣の生徒たちにも、この自負を持つ人間になってほしい。勉強を通じて自分の「無自覚」を「自覚」に変え、暦(こよみ)を積み重ねた人間だけが、真の意味で幸福な人生を歩むことができるのです。点数の先に残るもの、それこそが進学個別こよみの目指す教育の終着点です。

ご相談・お問い合わせについて

この考え方に、少しでも引っかかるものがあった方へ。

今すぐ答えを出す必要はありません。

座間市の学習環境やお子様の状況など、話をすることで見えてくるものもあります。

無料相談はこちら